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バス釣り、釣行記(権現堂川他)、資格取得、エッセイ、食、思い立ったこと。

【釣行記】21.09.05権現堂川 俺は見ている。時に寄り添い、時に一番高い所から【バス釣り奇行(8)行幸湖】

バス釣り奇行タイトル(権現堂川)

 

なんとか釣ったようだな。目標は無事達成、といったところか。まずは褒めてやるとしよう。しかし其れもここまで。今のルアーと昔のそれでは何もかもが違う。おいそれと、たやすいものではない。

「釣っていないルアーがまだ沢山ある」

確かにそう云っていた。だが深慮してもらいたい。躍起になって昔のルアーのみで釣る。それも結構。しかしそうこうしている間、今のルアーはどうなる? 気付いた頃にはそれらが古くなってしまうではないか。それらだって、魚を釣る為の道具なのだろう?

まあよい。ポンコツOJがこれから何をどうするのか。お前がどんなアングラーなのか。それとも只のポンコツなのか、見極めてやる。それまでは高見の見物としよう。まあ、せいぜい吠えづらをかくのが関の山だろうがな。

 

令和3年9月4日。数日前から雨空が続いている。夕方ともなると、ひんやりとした風が首筋を通り抜ける。そろそろ長袖が必要かもしれない。

夏の間よく着たTシャツをタンスの奥へと押し込むと、押し入れから衣装ケースを引っ張り出した。

 

ポンコツOJが釣りの準備をしている。明日、また行くつもりなのだろうか。さっきからホコリの被ったBOXを開けてはニヤニヤしっぱなしだ。まったく気持ちが悪い。ああいうのを自分だけの世界に浸かっている、というのだろう。なんにせよ、夢中になれるものがあるというのは良いことだけれど。

一体、どんなルアーを用意しているのだろう?

BOXの中身。古いルアーばかりだ。

「ふん、やはりな」

先日、彼は「まだ釣っていない昔のルアーが沢山ある」と言っていた。案の定、古そうなルアーばかり詰められている。きっとまた限定釣行をするつもりなのだろう。

明日は曇りの予報だ。9月に入ってからというものの秋めいてきて幾分寒い。急に冷え込むと魚も活性を落とすだろうが、幾日も続けば慣れてくる。それを狙うつもりだな。食欲の秋、魚もそうだとすれば、こんなルアーでも釣れるのかもしれない。さて、どうなるかな。

しかし俺は、見慣れない小さな「ワーム」がBOX内にあることを、気付いてはいなかった。

 

翌日。ポンコツOJの様子がいつにも増しておかしい。突然空を眺めたかと思えば、スマホを凝視してニヤニヤしている。朝からずっとこんな調子だ。こちらまで落ち着かないから、いい加減にしてほしい。

そんな彼が「権現堂に行ってくる」とだけ言い残し、家を出ていったのは昼も過ぎた頃だった。

 

令和3年9月5日(日)、昼下がり。茨城県五霞町権現堂川行幸湖)

最近のポンコツOJはよくここに来る。あれほど、釣れないと漏らしていたくせに。

権現堂を囲む木々はいつの間にか色づきはじめ、けたたましく鳴いていた蝉も威勢がない。日曜の権現堂には多くのアングラーが押しかけている。その中にはポンコツOJの姿もあった。

権現堂川(行幸湖)

 

「最初からあれを使うのかな」

そう思った矢先、彼はいつもとは違う竿を振り始めた。スピニングである。

ルアー釣り用のタックル(道具一式)は、「ベイト」と「スピニング」に大別される。ベイトとは、太鼓型のリールを用いて比較的重めのルアーを扱うタックルで、スピニングとは、小さく軽いルアーを扱うタックルである。

彼が振る竿の先には、これまた見慣れないルアーがぶら下がっていた。

権現堂川にて。極小ワームで釣る。

「今日はこのワームでいく」

ポンコツOJは腕を突き出して、何やらつぶやいている。

随分と小さなワームがあるのだな。子バスやブルーギルにとっては、まるでおやつだ。あれなら簡単に釣れるだろう。

「ああ、なるほど。そういうことか」

限定したルアーで釣り続けるのは容易ではない。だから餌みたいな極小ワームから始めた、そんなところだろう。とはいえ、あんなワームで釣ったところで、果たして楽しいのだろうか。

ポンコツOJは、いつもハードルアーばかり使っていた。それもほとんどがトップウォーターだ。楽しいはずがない。面白いと分かっていれば、とっくにその釣りをしているはず。きっと訳があるのだろう。あのタックルであのワームを使わざるを得ない何か理由があるに違いない。

 

それからの数時間。彼はタックルを持ち替えることなく、それを投げ続けた。時折、のけぞるように竿を振り上げるが、その先に魚が掛かっていることは、ついになかった。

ポイント移動を繰り返すポンコツOJ。すれ違いざまに、エサ釣り師と思わしき男性から声を掛けられていた。

「釣れたかい?」

「いや、ダメです。釣れないですね」ポンコツOJは言った。

笑顔で答えてはいたが、その眉間にはシワが寄っていた。なんだかんだ言っても、やっぱり釣りは釣ってナンボ。たとえそれが子バス狙いだとしてもだ。

エサ同然のルアーを使ってまで釣りたかったモノ。それが一体何かは分からない。しかし「ダメ」と答えた彼の心中はいかほどだっただろう。それが餌釣り師への返事だったというのか?

いや違う。

きっとポンコツOJ自身へと向けられたものに違いない。彼は自分自身へ「ダメ」と言ったのだ。自己を否定する彼のその釣りには、こだわりの先には、一体何があるというのか。

もういい。もう無理はするな。もう十分だろう。これ以上、見てはいられない。いつも通りでいい。いつも通りの釣りをしてくれ。

握り締めたこぶしが震えた。願うように、祈るように、それは果たして彼の耳に届くのだろうか。

権現堂川(行幸湖)行幸給排水機場

誰が見てもたやすく釣れそうな釣り。サイズはともかく数釣りできそうな釣り。その挙句の果てに釣れなかったとなれば、地層から発掘されたような、古臭いトップ用ルアーで釣りをしても同じことじゃないか。

その時、ハッと気が付いた。

「そうか!そういうことだったのか」

彼は、ポンコツOJは、伝えようとしているのだ。

まず釣れる釣りをする。にもかかわらず、釣れないところをあえて見せる。そうすることで、釣りとは何か、こだわるとは何かを伝えようとしていたのだ。

そう、彼こそは生粋のブロガーであった。

 

 

すがすがしかった。同時に恥かしくもなった。彼のことを今まで何年見てきたというのか。さすが、としか言いようがない。

「極小ワームでも釣れないのだから、釣れるかどうかに関係なく好きな釣りをすべき、ということだろう? な、そうなんだろう?」と、強く熱い想いを風に乗せ、彼に届けとばかり投げかけた。

すると想いが通じたのか、それともたまたまなのか。ポンコツOJが口を開いた。

「今日は日曜で人も多いし、たまには子バス狙いも面白いかなって思ったんだけどなあ」

「本当は大漁の予定だったんだけど、まさか1匹も釣れないとはね」とも付け加えた。

 

それは独り言のようにも聞こえた。しかし俺への返事とも取れなくもない。

どうやら、子バスいじめの「釣行記」ネタを考えていただけらしい。なんだよ、もう。心配した自分が馬鹿らしく思えた。

やっぱり彼は只のポンコツブロガーだ。あまりにもバカバカしくてその場に立ち尽くすほかなかった。

権現堂川(行幸湖)

ポンコツOJを残し、ほどなくしてその場を後にした。語り部を失った物語の結末は本人のみぞ知る、である。

 

しかしこれで良かったのだろうか。最後まで彼の釣りを見届けなくて本当に良かったのか。そう、うっかり忘れていたのである。彼がこの日、権現堂に持ち込んだのは、スピニングタックルだけではなかったということを。

ふん、釣れなかったか。ポンコツOJが云っていたことが誠ならば、奴は只のポンコツアングラー。そう、云っていたことが真実、だとしたら...な。どうやら、もう少し様子を見る必要がありそうだ。

 

 

 

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【コロナ】ワクチン2回目接種。それは安心した後にやってきた。

タイトル-ワクチン接種2回目のお話

「あぅあぅあぅ.....」

深夜の12時過ぎ。それは思いがけず襲い掛かってきた。何もなくてホッとした。そんなふうに思ってしまったことに今さらながら悔やんだ。体中が熱い。それなのにどういうわけか寒いのだ。全身に湧き起こった異変に、ただ布団の中でガクガクと歯を鳴らし身震いするばかりだった。

8月24日。コロナワクチンの2回目接種のため、会場を訪れたのは午前10時を少し回った頃だった。キャンセル待ち登録の記事を以前書いたが、その直後、首尾よく1回目の接種ができたのだ。 

あれからちょうど4週間。会場に到着すると、心臓がバクバクした。2回目は副反応が出やすいだの、高熱が出やすいだのなんだのと、要らぬ情報ばかりを吹き込まれたからだ。

問診で前回での副反応について問われたとき、

「37度の熱が出て... 1時間ほどで下がりました」

と答えると、医師はあからさまに表情を曇らせる。同時に、かすかにではあるけれど「え」とも聞こえた。いや、気のせいだったかもしれないが、「え」と言いたいのはこちらのほうだった。

副反応の説明を受け、医師の「何か不安なことは」という問いかけに、

モヤモヤするものが脳内でうごめく中、こう告げた。

「副反応が... 不安です...」

あんたのせいで余計に不安になったよ、とも言えずに。

 

それからはとてもスムーズだった。あまりの円滑さに心の準備が間に合いそうもない。看護師が「じゃ、打ちますね」と訊いてきたが、ハイと答えようとしてその声は完全に裏返ってしまった。

前回は接種後、15分間会場に待機した。しかし今回は20分経っても席は立たなかった。ワクチンのせいなのか緊張のせいなのか。頭がフワフワする。30分経ったら席を立とう。その時ふらついたらまた座ろう。そう考えながら何度もスマホをチラ見した。後から来た接種済者が、脇から後ろからどんどん席を離れていく。いいかげん大丈夫だろうか。そう思ったころにはとうに40分を経過していた。

心配をよそに体は至って正常だった。さっきまで抱いていた不安はどこかへ吹き飛んだかのように思えた。いや、だめだ。これからだ、出てくるのは。そう今一度気を引き締めると、自宅に向けて自動車のハンドルを握った。

 

帰宅すると、妻と息子が心配そうに「どうだった」と聞いてきた。できるだけ明るく「なんてことなかった」と答えた。それはさながら自分自身への不安を拭い去るかのようだった。

ワクチンを接種した日と、翌日以降2日目までに副反応が出た場合は、公休扱いになる。平日にもかかわらず、一日をのんびりと過ごせるのはそのおかげだ。前回は打ってから1時間後くらいに熱は出た。ところがこの日は2時間経っても3時間経っても発熱しなかった。たまにはのんびりと家で過ごすのも悪くはない。夕食を終えた後も、息子と動画鑑賞したりと、ゆっくりくつろいだ。もう副反応はないだろう。ああ、なにもなくて良かった。2回目が無事終わって本当に良かった。

 

「おやすみなさい」と息子が声をかけてきた。明日は仕事だ。今日は早めに寝よう。毛布をまとうように横になると、次第に眠りについていった。

しかしこれで終わるはずなどなかった。深夜の12時過ぎ。それは思いがけず襲い掛かってきた。訳も分からず体が震える。妙な寒気がして歯と歯がカタカタと鳴り出した。暑くて汗が出ているのに体は震えることをやめてくれない。これを悪寒とでもいうのだろうか。全身が熱い。なのに身体は寒い。気が付くともだえるように叫ぶように言葉を発していた。

「あぅあぅあぅ.....!」

ただならぬ様相に、眠っていたはずの家族が寝室に入ってきた。「どうしたの、どうしたの」と息子の叫び声が耳に入ってきたけれど、歯が勝手にガタガタしてまともにしゃべることができない。毛布を掛け直してみても、扇風機を止めても寒気は治まらない。なぜだ。どうして悪寒が出るのだ。扇風機に当たりすぎて体を冷やしてしまったのだろうか。それとも昼間に食べ過ぎたアイスのせいなのか。その答えは、妻が取ってきてくれた体温計で判明した。

38.5度。

のんびりと過ごした昼間とは比べられないほど、体温は上がっていた。それはまぎれもなくワクチンの副反応だったのだ。

体を毛布でくるんだ。しかし他に何もすることがない。解熱剤を口に含むことをおいて他に、何もできなかった。気持ちが悪い。つらい。発熱とはこんなにもつらいことだったのだろうか。もうろうとする意識の中であの時の事を思い出していた。それは1年半程前のこと。ちょうどコロナが流行る直前の頃のことだった。

 

今日は残業だ。いや、いつもか。今日中にここまでは終わらせねば。なにか気だるさを感じながらも仕事は順調に進んでいった。翌朝。ベッドから降りようとするとめまいがする。37.4度。昨日からの気だるさの原因が体温計を見て分かった。しかし今日は大事な講習会が午後にある。これくらいで休むわけにはいかない。内科の診察券を手に取ると、いつも通り家を出た。

風邪でしょう、と医師は言った。薬を携え車を講習会場に走らせる。診てもらったのだからと、わずかながら安心感があった。しかし会場に着く頃にはひどいありさまだった。冬なのに火照った顔に流れ落ちる汗。頭がぼーっとして、講義の内容など何一つ頭に入らなかった。

ふらふらの体でやっとの思いで帰宅したのは午後も8時を回ったころ。体温計を見て驚いた。38.6度。医者の薬を飲んでいたのになぜだ? 食欲もないのに無理にめしを口に詰め込んだ。疲れが溜まっているのかもしれない。ゆっくり休みさえすれば、きっと明日には熱は下がるだろう。そう思いながら床についた。

翌朝、体温は下がるどころか益々上がっていた。こんな高熱、今までに出た記憶はない。ただでさえクラクラするのに、余計に頭がおかしくなりそうだった。

 

あの時は本当につらかった。まったく薬が効かなかったのだから。間違ってラムネでも飲んでしまったのかと思いたくなるほどに。39度超えが何日も続いたあの日。もうこれっきり熱が下がらず死んじまうんじゃないかと思ったあの日。ようやく熱が下がり、地獄のような1週間を乗り越えたとき、もうどんな高熱だって怖くなんかないと思った。

 

夜が明けた。熱にうなされて、ろくに眠れやしなかった。もう仕事どころの話ではない。いや、熱が出れば公休だっけ。解熱剤が効いたのか夕べよりはいくらか気分はマシだ。そう思ってベッドから立ちあがったその時。今度は膝が痛むことに気が付いた。関節痛。接種会場で渡されたパンフレットに書かれていたことを今さらながら思い出した。 

結局、その日も熱は下がらないままだった。上司に予め連絡を入れることにした。明日も出社できないかもしれません、と。

 

翌朝。なぜか布団が心地よく感じる。目覚ましが鳴る前に自然と起きられたのは久しぶりだ。ぐっすり眠れたのか、とても気持ちがいい。体温を測ってみると、案の定、平熱に戻っていた。熱がないとはこれほど気持ちのいいことなのか。膝が痛くないことがこれほど快適なことだったのか。今なら町内一周でもできそうなくらいだった。あのつらかった地獄の1週間に比べたらなんと他愛のないことか。体調が良いと気分も良くなる。すたっとベッドから降りると、足取り軽く階下へと降りて行った。

そこには妻がいた。息子も今日は起きていた。思えば熱を出して家族には本当に心配を掛けてしまった。

「もうだいじょうぶなの?」と声を掛ける妻にこう答えた。

 

 

ワックチンっ! まだくしゃみが出るけど、大丈夫だよ、オカン

 

...しまった。オチにしては外し過ぎだ。そう思ったが時すでに遅かった。どうやら熱は脳ミソに後遺症を残してしまったらしい。

息子は黙ったまま、みそ汁を「ズルズル」とすするだけだった。

 

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「ふたつの歯科医」 -まったく真逆の2つの歯科医。あなたはどちらを選ぶだろうか-

タイトル「ふたつの歯科医」

 

「ふたつの歯科医」

建物も設備も古いが通い慣れた歯科医と、何もかも新しく最新設備の整った開業間もない歯科医、あなたならどちらに診てもらうだろうか。

連休初日。突然、右奥歯に痛みを覚える。いや正確には突然ではなく前兆はあった。食事中、詰め物が浮くような感覚があり、それ以来ずっと違和感が残っていた。ただ、特に痛みがあるわけでも、詰め物が取れたわけでもないので放置していたのだ。

さて、どうする?

明日からはどこの医者も休みになるだろう。もう少し様子を見るか?それとも診てもらうべきか? よく行く歯科医は、昔から通っていたM歯科と、ここ最近から診てもらうようになったS歯科だ。

 

M歯科。

地元に根差してかれこれ何十年と経つ。おそらくこの辺りの住人のほとんどが、この歯科医にお世話になったことがあるのではなかろうか。規模は小さく、スタッフは一人だけ。いつ通院しても待合室に患者を見ることは稀である。おまけに、ここの先生は口数少なくぶっきらぼう。しかし長年の経験からくると思われる腕だけは確かだ。

 

S歯科。

市街地に立地し、多少車を走らせる必要はあるが、それほど遠いわけでもない。開業してまだ数年であり、建物・設備ともに新しく、スタッフを何人も抱え、通院する患者も多いようだ。広い駐車場にゆったりとした待合室。先生はいつもにこやかで、小さな子供連れの親子もよく見かける。今どきの医者らしく、治療前後の細やかな説明もありがたい。

 

痛み出した右奥歯。

それは以前S歯科で治療を受けた歯だった。当たり前のようにS歯科へと連絡を入れてみるが、取れた予約は6日後だった。大丈夫だ、なんとか我慢できる...。右頬を押さえながらそう思った。

しかしその決断は、ものの30分も経たないうちに、あっけなくも崩れ去った。

「ぐぅ...!!!」

我慢できるかと思われたその右奥歯は、想像できないほどに痛みを増したのである。執筆途中のブログどころの話ではない。なにも集中できない。名ばかりの鎮痛剤も用をなさない。気が付けば、もがき苦しむように床下に崩れ去っていた。心配した家族に声を掛けられたような気もするのだが、それさえも耳に入らなかった。

S歯科に診てもらうのは6日後。とても我慢できるはずもない。たかが数分でさえもだえ苦しんでいるのに。悲痛な面持ちでM歯科へと震える手で電話を掛けるのがやっとだった。そう、ワラをも掴む思いで。

「すぐに来てください」

そんな言葉が電話口から聞こえたその時、すぅ~と痛みがひいたような気がした。

 

その時、思い出した。

過去にも聞いたことのある言葉であったことを。

あれは、そうだ。まだ息子が小さかった頃。年端もいかない我が子が誤って座敷から転落してしまったことがあった。それもコンクリートに。血をだらだら流しながら息子は泣くばかりだった。息子は永久歯に生え替わるのが早く、あろうことか、血はその生え替わったばかりの前歯から滴り落ちていたのである。

すぐさま掛かりつけのX歯科へ連絡をするも、非情にも今はできないとの返事をされてしまった。そんな中すがる思いで電話したM歯科。

「すぐに来てください!」

そこでの言葉がまさにそれであったのだ。

心配した妻の運転でM歯科に到着したのはそれから30分程後のことだった。M先生は、今は虫歯となったその奥歯を適切に、かつ、じっくりと処置してくれた。いまだかつて、これ程までに時間を掛けて処置をしてくれた歯医者があっただろうかと思うくらいに。

歯が痛くないということが、どれほど幸せなことか。痛いほど、いや、もう痛くはないけれど、実感できた1日であった。あんな地獄のような思いはもう二度と御免である。

そうだ。あの時もそうだった。応急処置をしてもらった息子を、後日、知人の勧めで口腔外科医のいる歯科に診てもらった時、そこの先生はこう言ったのだ。「歯は何の問題もありません。適切に処置がされていますよ」と。 

幼かった息子。生え替わったばかりの歯から血を流し泣いていた息子。そんな息子と一生を共にする大切な永久歯を救ってくれたM歯科。 

なのに自分はそんなこともいつしか忘れ、見てくれの新しいS歯科へ通院するようになっていたのだ。M歯科は、自分だけじゃなく、息子の窮地をも救ってくれた歯科医だったというのに。

まだ右奥歯の治療は続いている。

M先生によれば、他にも要治療の歯があるそうだ。その治療はどこにお願いするのかって?なんて聞かないでいただきたい。言うまでもなくM歯科をおいて他にないのだから。

今日の診療時、この奥歯はあとどれくらい通院すればよいか聞いてみた。あと3回との返答に、なるほどじっくりと治療してくれるんだな、と思った。先日のあの日だって、念入りに処置してくれたものなあ。そう、キュルキュルなんて音を立てて...。

 

 

 

 

...ん? 

キュルキュル??

 

もしかして、あれは神経を抜いていた音だったんじゃないか???

目をつぶっていたから気付かなかったけれど、確か以前S歯科で神経抜いた時もそんな音がしていたことを思い出した。

 

...

 

で、できれば事前に言って欲しかったかな~神経抜くって。一言でいいから。 

抜くしかない状態だったのだろうが、要はまあ、そんな医者なのであった。

 

どうやら、歯科医もまた、その状況状況に応じて選んだ方がやっぱり良さそうである、というお話でした。

 

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お題【記憶に残っている、あの日】僕にとっての親友とは。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

僕にとっての親友とは。

 

 

親友
友人をそう呼ぶ時、どこか気恥ずかしく感じるのは僕だけだろうか。人生に於いて、各々のシーンで沢山の友人に出会うことだろう。しかし親友と呼べる友は数人しかいないものだ。もしも、そんな親友がある日突然親友でなくなる日が訪れたとしたら、あなたはどうするだろう。忘れもしない小学6年生のあの日。卒業を間近に控えたあの日ー。


彼とは小学5年生の時に出会った。それまでにも顔を合わせることはあったはずだが、どこか引っ込み思案で気弱な少年であった僕にとって、Yは別の種族の人間にさえ見えていたのだろう。体格。運動神経しかり。接点という言葉すら知らなかった少年は、これまでYと話したことは一度たりともなかった。

 

ある日のこと
教材の片付けを先生は僕に依頼した。そしてYにも。いつもなら、ただめんどくさいと思っただろうが、この時だけはそうではなかった。教材でYがふざけて吹っ掛けてきたからだ。まるで家族参加クイズ番組の司会者のように。

「この中でぇ~! 形が同じものはどれとどれでしょ~か!?」「これ?」「ブ~!」

教壇の上で他愛もない話をするうちに、二人は意気投合していった。Yは別の種族でもなんでもなく、僕と同じ普通の少年だったのである。チャイムが鳴るまでの僅か10分程の時間。それは二人が親友になるには充分であった。

 

それからというもの二人は何をする時も一緒だった。そう下校さえも。互いの家に一緒に帰宅することが日課となった。

Yの家は団地だった。両親と姉、そして二つ下の弟。それが彼の家族だった。Yの家族は、あだ名で呼掛けてくれるほどに僕を快く迎え入れてくれた。

 

Yは僕ができないことが何でもできた。ローラースケート。ボート漕ぎ。そして色々な事を知っていた。

よくカンフーごっこをして遊んだ。思えばジャッキー映画を好きになったのもその頃だ。龍拳のラストバトルのカッコよさは今でも忘れない。

Yは僕以上に戦車大好き少年で、模型店によく足を運んだ。大雪の庭ではリモコン戦車のプラモが大活躍もした。自転車で団地内を走り回ったりしたこともあった。乗り回しすぎて前歯を欠いてしまうほどに。

学校や公園、団地に駄菓子屋。川や池、駐車場にグランド。どこかでいつも遊んだ。いつも一緒だった。

気が付けば、僕はローラースケートも、ボート漕ぎも上手になっていた。

 

 

そんないつも通りのはずだったあの日
新規投入車両のお披露目会と銘打ち、Yの部屋でリモコン戦車遊びをした時のこと。

Yの戦車を手に取って眺めていたその時、うっかり車輪の固定部分が欠けてしまった。膝元に落下したその車輪は、実車のそれとは比べ物にならないくらい脆かった。旧ドイツ軍4号戦車。次に何を買うか迷っていたYに僕が推した車両だった。それなのに。

「気付いたら割れていた。重さに耐えられなかったのかも」

お茶菓子を手に戻ってきたYに、あろうことかその場しのぎの嘘をついてしまった。小学生とはいえ、こんな嘘すぐに分かるはずだ。今思えば。

ところがYは怒ることも嫌な顔もせず、大好きな戦車の末路に一瞬だけ驚いたあと、ただ「そっか」とだけ言った。どうにかやり過ごせたと思った。ただYがわずかに見せた悲しげな目だけが少し気になった。

あくる日、学校で顔を合わせたYは、いつものYだった。いつものように他愛もないことで笑い合っていると、昨日のあれは錯覚だったのかと思えてくる。戦車は壊れてなどなかったんじゃないか、と。

* 

6年生の夏
夏が憂鬱だった。プール開きが近づくにつれその気持ちは増した。そう、僕はかなづちだったのだ。水泳の等級は、泳げない者から順に赤帽、黄帽、青帽となっていた。クラスに赤帽は3人しかいなかった。そんな僕にYは泳ぎ方を教えてくれた。彼は青帽だったのだ。

その夏、赤帽は2人に減った。昇級テストで必死に励ましてくれたYのおかげで。

 

本当に仲の良い友達だった。親友とは彼の事を言う言葉だった。それなのに。

 


同じクラスのIと話す機会が増えたのは、冬休みも明けた頃だった。Iはどこか物静かで、同時に寂しげな雰囲気を持っていた。いつも一人でいた彼に声を掛けたのは大した理由などない。いやそれとも、同じくしてYも同じクラスのMとやけに話しているのを見ていたからなのか。Iは性格も優しく、気が合うところがあった。

その頃からだろうか。Yと過ごす時間が減っていったのは。しかしこれが後にあんなことになるなんて、この時には知る由もなかったのである。

 

そして訪れたあの日
そう、あれは卒業を間近に控えた、春と呼ぶには肌寒い日だった。引き出しに紙切れが残されていて、見覚えのある字でこう書かれていた。

「今日の放課後、プール裏に来い」

胸の鼓動が一気に高鳴るのを覚えた。それが親友あての言葉でないことに気付いたからだ。

放課後。そこにはYがいた。時々遊んだTとともに。
「お前は仲間を裏切った」Tが言った。どうやら最近Iと仲良くしていたことを言っているようだった。もちろん、そんなつもりは微塵もないのに。Tだって大好きな友達だと思っていたのに。しかし取り繕う余裕などなかった。僕は無力だった。

初めて胸ぐらを掴み合った。不思議とYを悪くは思わなかった。ただ胸のあたりが強く締め付けられるように苦しくて、何度も涙が出そうになった。なぜYは僕の胸元を掴んでいるのか。何がこうしてしまったのか。何がいけなかったのか。もし答えを知る者がいるのなら、教えて欲しかった。

あの日あの時言えなかったこと。もしもあの言葉を言えたなら、こんな喧嘩をすることもなかったのだろうか。

翌日、Yは眉をひそめながら言った。
「ローラースケート、早く返せよな」

それは友達に向けられたものでさえなかった。当時の言い方ならば絶交と等しいものだった。

 

ローラースケートを返しに行った日
Yに会うのが怖かった。決して責められることを恐れたわけではない。

借りたままのローラースケート。上手くなれるよとYが貸してくれたローラースケート。それは今まさに僕の手を離れようとしている。数え切れないほどの思い出とともに。

スケートは玄関先に置いてきた。上手く滑れるようになったのなら、もうこれは不要なのだと言い聞かせながら。今でもローラースケートを見るたびに思い出す。

* 

中学校では卓球部に所属した
入部先を決める前、体験入部でYの姿を目にした。目を合わすこともなく体験会は終了を迎えようとしたが、終わりのミーティング、気が付くとYが隣に座っていた。あの頃、何する時も一緒でいつも隣にYがいた。そして今隣に座るYは、喧嘩をしたあの日のYとは違うのではないか。不思議と僕にはそう感じられた。

「靴下、ワンポイントが入っちゃってるよ~?」

何も発せずただ座る彼に、言った。その声は震えることもなく確かに友人に向けて発せられたものであった。彼は一瞬だけ足元に目を移すと、何も言わず、ただその場に座り続けるだけだった。Yは卓球部に入部しなかった。

それ以後、Yが何部に入ったかは分からない。卒業まで同じクラスになることもなかったし、どうしていたのかさえも知ることはなかった。ただ分かった事は、Yが住んでいたあの団地にYの表札がなくなっていたということだけだった。

今でも時々考える。なぜYはあの時隣に座ったのかと。そんなYに一言ではあったけれど素直に話しかけた僕。もしかしたらYも同じ気持ではなかったか。少なくともお互いに喧嘩したことは忘れていたはずだ、あの瞬間だけは。そう思わずにはいられなかった。

あの日のことを忘れない
あの日あの時壊れたもの。なぜ素直に言わなかったのか。否、言えなかったのか。あの時見せた表情にはどんな意味があったのだろう。

ローラースケートを返した日。なぜただ置いてきてしまったのか。ポツンと置かれたそれを見て、彼はどう思っただろうか。

Yにまた会いたい。いや、会わなくちゃいけない。会って素直にあの日のことを謝りたかった。

 

帰省した日
中学校の周辺は宅地化が進んでいた。毎日歩いた雑草だらけの家路はすでになく、区画整理された綺麗な街並みに変貌していたのである。それとは対照にYが住んでいた団地はそのまま残っていて、団地棟が立ち並ぶ様相は何ら変わってはいなかった。

気が付けば、団地の中へと車を走らせていた。あの先のカーブを抜ければ見えてくるはずだ。ほどなくして視界に飛び込んできたのはまぎれもない、あの懐かしい橙色の建物だった。道端に車を停め、その地に足を踏み入れる。ツタが垂れさがり草が繁茂こそしてはいるが、その変わらぬたたずまいにただ立ち尽くすばかりだった。

すると、さっきまで助手席に座っていたはずの息子が隣で言った。

「どうしたの。何を見ているの」

心配そうに見つめる息子を前に、深く呼吸をしてから答えた。

「ここに住んでいたんだよ。親友がね」

その時、やっと気が付いた。

Yを気に掛け、会いたいと思い続けている限り、Yは親友のままでいたということに。そう、何も変わってなどいなかった。僕にとってのYは気恥ずかしくもなく言える、たった一人の親友だったのだと。

Yよ。いつかきっと会いに行くよ。そして今度こそこう言うよ。「ごめんなさい」と。