思い立ったらブログ書こう。

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なけ。

あれはまだ20代前半の頃。前職に就いて数年経ったある日のこと。

係長は言った。

「○○君。けよ。いいか、嘆くんだかんね?」*1

 

僕は係長が何を言っているのか、よく分からなかった。

悲しくもないのに泣けと言われても。

 

あれから20数年。

最近になってあの意味がわかった。

仕事でも私生活でもそうだけれど、人生いいことばかりではない。むしろ、悪いことの方が多いように思える。順風満帆に生きていければと思いたいけれどそうはいかないのだ。

毎日のように嫌な事もあれば、つらい事だってある。

そんな時こそ、「なけ」と言っていたのである。

嫌なことがあった時、辛い時、自分一人で抱えるな、そう言っていたのだ。

遠慮せず気を使わず「なけ」と言っていたのだ。

 

それに気が付いた時、心がすぅーと軽くなった。

誰にも相談できず、誰にも助けてもらえない。そんな人は多いかもしれない。

そんな時は「嘆け」である。

 

「嘆いたところで何も変わらない。むしろ後ろ向きな気持ちになるから嘆かない方が良い」

なんて言う人もいるかもしれない。

しかし人間は弱い生き物である。なきたいときは泣いてもいいのではないか。

思いっきり嘆いてもいいのではないだろうか。

 

後から知ったのだが、当時、係長が「なけよ」と言ってくれた時、係長のとある同僚が自ら命を絶ったということだった。

もしも「ないて」いたら、彼は思いとどまることができたのかもしれない。

 

あの時「なけ」と言ってくれた係長はとうに定年退職していた。

「なけ」の本当の意味は聞かず終いだけれど、それで救われた自分がいる。

 

今自分にできるのは、同じように一人で悩む者に「なけよ」と声を掛けることだ。

 

そう、あの日係長が声を掛けてくれたように。

 

 

*1:I 県では嘆くことを「なく」と言う地域がある

【小説】「あと少し、もう少し」中学生の息子がボロボロになるまで何度も読み返した小説とは!?(感想)  

「HRの時間を利用して小説を読むことになった。いったい何がいいだろう?」

中学生になったばかりの息子が言った。しかしそんなことを聞かれても、小説など小学生の頃に「巌窟王」だの「十五少年漂流記」を読んだことがあるだけである。(それも児童向けの、だ)それ以来、かれこれ40年近く読んではいない。

ひとまずネットで調べてみる。

「中学生 おすすめ 小説」検索。

そこで出てきた小説が、この「あと少し、もう少し(瀬尾まいこ著)」だった。

 

本の表紙を眺める。中学駅伝を題材にした青春小説。勝利をつかむまであと少し、もう少しと奮闘する話と容易に想像がついた。そのタイトルは平凡に思え、とりあえず息子には勧めてみたものの、特に気にとめるモノでもなかった。

 

購入から1年程過ぎたある日、息子の机をふと見た時、それは目に入った。

それは、どこかで見た、しかしボロボロになった小説だった。あちこち折れ曲がり、カバーは所々破れ、しかしテープで補修はしてある。どう見ても2度や3度読んだだけではこうはならないだろう。

そう、それがあの時購入した「あと少し、もう少し」だったのである。

折しも、ブログというものを始め、文章を書く機会が格段に増えていた。自分でも知らず知らずのうちに、書くのが楽しく感じられていたころ、次第にもっとうまく書きたい、とも思っていた。そのために必要なことは何よりも「書くこと」に他ならないのだろうが、もう一つあった。他の文章を徹底して読むことだ。そう思っていたところにこの小説が目に入ったのである。

中学生が主人公であり、中学生にも読みやすいのならこれまで活字を読むことから相当離れていた自分にもすんなり入れるだろう、そう思った。

 

果たして読み始めてみてびっくりした。どんどん引き込まれていく。あちらこちらに伏線が張られているのにも気が付く。言葉の表現が描写が、怒涛のように書き綴られていく。これが小説というものか。これが人を惹きつける文章というものなのか。そう思わずにいられなかった。気が付けば、最後まで読み終わっていた。

もっと早く読んでいればよかった。それが率直な感想である。

 

「あと少し、もう少し」とはどんな物語だったのか? 

 

「駅伝」とは団体競技なのか? それとも個人競技なのか。

一人だけで競うわけではないから、団体競技である。しかし、走る時は一人だ。チームの仲間からの助けなどない。ただ自分の力だけで走り抜き、次の走者へ襷を渡すだけである。

 

- 本当にそうだろうか?

もしそうだとすれば、なぜ箱根を走る駅伝中継に誰もが釘付けになるのだろう。なぜ感動せずにいられないのだろう。それは、たった一人で走る彼らには、それまで繋いできた仲間の想いが、これから繋ぐ仲間への想いが込められているからに他ならない。

この小説には、駅伝に対する、いや駅伝と一括りにしてしまったら余りにも単純であるが、少年たちの想いが、痛いほど言葉を通じて読み手にこれでもかとばかり突き刺さってくる。目頭が熱くなってくる。 

 

 

彼らはなぜ走るのか。

なぜ最後まで走ろうとするのか。

誰にも自分しか知りえない過去がある。いや、もしかしたら自身でさえ理解していないのかもしれない。少年たちが抱える純粋な想いを、襷(たすき)にのせて彼らは走り続ける。あと少し、もう少し。駅伝を通して、仲間を、そして自分自身を見つめ直す。駅伝があったからこそ、お互いを知ることができる。果たして襷は繋がるのか。人と人との繋がりは一体どこまで続いていくのだろう。ひたむきに前を向きゴールを目指す彼らの先にあるものとは? その結末は是非手に取って確認していただきたい。

感動の青春小説、今、号砲が鳴り響く!

 

 
※この記事は、半年程前に執筆したものの下書きのままになっていたものを投稿したものです。

不安な時こそ。

不安に駆られたとき。

心配で落ち着かないとき。

 

そんな時にできる最善の方法は

今、自分ができる事、やるべきことに全力を尽くすことである。

 

不安に心を奪われ、今できることを疎かにすべきではない。

 

 

心を奮い立たせろ。

どうして自分ばかり、こんな目にあうのだろう。

なぜこうなってしまったのだろう。

そう悲観したくなるかもしれない。

 

しかしよく考えて欲しい。

 

悲観したところで、状況は何も変わらないということを。

悲観しても好転することはないということを。

 

むしろ悲観することで、絶望に心が押しつぶされそうになる。

 

だから、どんなにかつらいことがあったとしても、絶対に悲観なぞしない。

 

悲観しなければ、心が折れることはない。

今はただそう信じて、前を向くだけだ。